つきゆびです。

私は年に数回ほどひきこもり経験を人前でお話させてもらう機会があります。そういった講演会に足を運ぶ人というのはひきこもり本人の家族が大半であって、次に支援者であり、当たり前ではあるがひきこもり本人がそういった場に姿をあらわすことはめったに無い。数年前、県外のそんな講演会に呼ばれて自身の経験を語らせてもらったときのこと。

そのときは1時間ほど時間をもらいお話させてもらった。たどたどしい部分もあったと思うが無事に講演を終え、スタッフや参加者の方と少し話していたら「すみません」と声をかけてきた人がいた。ひと目で強い緊張が見て取れたがわざわざ声をかけてきてくれたその人とお話しているとまた「すみません」と謝られた。「どうしました?」と尋ねると彼は、数年ぶりに家から出たことを話してくれたあと、この場に居ることに必死すぎて話の内容が入ってこなかったことを私に詫びてきた。

それを聞いたときに私は「そんなのどうでもいいやん」と思ってしまった。それは、自身の経験談を卑下する訳でもないし、彼の誠実さを否定するものでもない。シンプルに「ただその場に居る」ということがどんなに凄く大変なことか私は痛いほど知っていたからだ。彼の行動は謝るようなことではなく、今日この場に来ようと思ったこと、この場に居ることに必死だったことにむしろ胸を張ってほしいと強く思ったのだ。でも、ひきこもり本人は胸を張らない。むしろ罪悪感を抱えて生きていたりもする。それも痛いほど理解出来たから無理矢理に肯定したりはしなかった。ただ今日来てくれたこと、この場に居てくれたこと、勇気を出して話しかけてくれたことへの感謝を伝えた。

そのときのことを思い出すと今でも胸がいっぱいになったりする。少し生きてみようかと思える。講演会を続けていると、ひきこもり本人に限らずそういった人との縁に恵まれることがある。そういったものを繋げて私は今生きている。

つきゆび

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