ピアサポーターのみててないです。

僕の自己紹介を、と言うことで、何もなしに書き始めるのは辛いと弱音を吐いたら、MMさんから「では貴方が関わっている芸能活動などの話を」とテーマを頂き、「なるほどそれなら少しは」という思いと、確かに僕を語る上でその焦点はあながち悪くないという思い、MMさんという人物の感性の良さや、そういった方が世話人をしてくれている現在のピアセンの環境を感じて非常に暖かい気持ちになった事を伝えたい。

自己紹介において持って回った複雑さは特に良い方向には働かないという感覚が僕にはあり、そういった意味でMMさんのこの切り口はその人柄の素朴さに起因するところだと直感します。ありがとう。

僕は10年ほど前から「西畑人形芝居保存会」のお手伝いをしている。最初は額太鼓と締太鼓という楽器の演奏から入ったと記憶している。

ここに僕を巻き込んだ張本人は現在の僕の義母に当たり、つまりは僕の妻の母親である。「ちょっと太鼓を叩いてくれんか?」とまるで、お使いでも頼むみたいに軽々しくあっけらかんと頼んだその声を今でも覚えている。

当時まで不登校気味の人生でマトモに役員すらやった覚えのない僕を良くもまあ誘ったもんだと今でも思うが、彼女のもつその軽やかさは現在も発揮され、保存会を引っ張っている。

軽々しくといったが、彼女の内にはとても熱い思いも秘めている。そういうものに僕も少なからず影響されていると思う。それは言葉で表れることはあまりない思いだ、現に彼女は練習時「人前でやる以上、カッチリと!」と口では言っているが、まあそれなりに練習して、本番でミスをしてもその言葉でもって責め立てたりしないのだ。少なくとも僕を。

これは僕が勝手に思っていることだが、彼女が「続ける事の難しさと大事さ」を何より分かっているからだと思う。昔「無理なら、人が居なくなってしまえば、それまでよ。私達みたいなもんは50年に一度居るか居ないかだから」と彼女が口にしたのを僕は知っている。

だから僕も「続く」事を何よりも重視する。「続ける」事ではない。断じて。

彼女の『それ』は引きこもったりした時に何よりも感じていた「無理してはいけない」という直感を確信に変える大きな出来事だった。

支援そのものもそうだが、自立支援、社会復帰の道程においてもこれは同じだと考えているし、「続く」をテーマに据えるとゴールはなくなる。いや「ゴール」を消すことが自立や社会復帰といわれるものへの第一歩だとさえ思える。社会復帰したねと第三者に認められても当事者の生活は当然「続く」のだ。続く先に好天も荒天ある。それを歩むのは支援者や家族ではなく当事者なのだ。間違いなく。

だから僕は「無理なく」「楽なく」「努力なく」というチェックポイントを見る。

無理をしすぎると、続かない。

楽しすぎると、飽きてしまう。

努力しすぎると、疲れる。

続ける上で大事なことだ。誰でも一度は経験あるのではないかと思う。ただこれは「続く」上で大事なことで、「続けろ」「飽きるな」「疲れるな」と言っているわけでは無いことは十分理解してもらいたい。

僕はこれまで独りの時、頭の中をもたげていた色んな問題にコツコツ取り組み続けている、そうした問題達に一応の解を見ることがあったが、独りではそこで終わってしまった。その僅かな解を持ち色んな事に首を突っ込んでみた半生だった。

その解の中にはまるで的外れもあったと思うし(覚えていないが)、「まあ悪く無いんじゃないか」と思えるものもいくつかあるような気がする。

だがいちばん大事だったのは「続く」と言うこと。これをある程度の確信までもっていけたのは間違いなく「西畑人形芝居保存会」のみんなのお陰だと思う。

コロナにより、祭りが軒並み中止となって久しいが、こういう確信を僕に与えてくれたコミュニティを僕は受け継ぎ守っていきたい。無理のない範囲で(笑)

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