気の知れた仲間と焚き火をするのが好きで、時折そういう集まりをする。本当に簡単な事から始まった事なのだがどういう経緯で始まったかというと、
「外でインスタントラーメン食べたらうまいんじゃね?」
というしょうもない、まあ土佐言葉でいうならざっとした理由でキャンプ場にインスタント食品と水と家にあったカセットコンロと鍋を持ち込んでお湯を沸かして食べたのが始まりだ。
初めてインスタント食品を外で調理して食べた時、ものすごい発見があったのだ、そのキャンプ場は木に囲まれた環境だったのだけど、鍋で水を沸かしているときに木の葉の屑が鍋の中に入ってしまった。
「鍋のふたが欲しいね」
「鍋のふたって便利だね」
そんなことを話したのを今でも覚えている。その後もこんなものが必要。とかこれは要らない。みたいな試行錯誤をごとごと続けていくのが楽しかった。これは甚だ車輪の再発明のような話なのだけど、僕にとって目の覚めるような発見だった。
誰も鍋のふたの必要性なんか知らなくても生きていける。でも僕たちの身の回りにある色んなモノ、コトは僕たちの必要性や、発見によってもたらされている。
電気やガスを使うのは火を熾す大変さを知っているから、水道を使うのは生水の処理の大変さを知っているから。
逆に言えば火熾しをしたことある人だけが電気ガス水道の恩恵を受けることが出来るんじゃないかと思う。
さらに続けると、諸々のインフラのシステムは外からもたらされたものじゃなくて、前時代を生きた人達の必要性によって発明や改良によりもたらされたものだとも思う。
つまり人間はその様々なモノ、コト(インフラ等)をアウトソーシング(外部委託)して、利便性や効率を上げてきた、しかしそれら自分達の内側の働きとして元々あったのではないかな?と最近思う。そうだとすれば、外貨によってインフラ代を払うよりも、自分でどうにかするのが性に合う人も居るのかも知れない。
そしてピアサポート、これを「境遇同じくするもの達の相互扶助」だとすれば、このシステムは前時代どんな形をしていたのか?僕の今の興味はそこに移っている。